このページはJavaScriptを使用しています。JavaScriptを有効にして、対応ブラウザでご覧下さい。

中小企業のための「介護離職防止」対策! 第16回 実際の「介護のある生活」事例③

~企業は「人」がいるから売上がある!をサポート~

著者:一般社団法人 日本顧問介護士協会 代表理事  石間 洋美

中小企業のための「介護離職防止」対策! 第16回 実際の「介護のある生活」事例③

介護は、直面しないと考えにくいものです。しかし、介護は突然始まり、いきなり始まった介護に戸惑い、精神的に追い詰められ、疲弊していきます。

その時、多くの方が「確認しておけば良かった」「準備しておけば良かった」「片付けておけば良かった」……と少なからず後悔することがあるのです。

今回は、4年間に渡り介護に関わった、もう一つの実体験をお話しさせていただきます。このお話をすることで、今はまだ身近に感じていない1人でも多くの方に、少しでも自分事として捉えてもらえたら嬉しく思います。


4年間の介護実体験②~祖父母の介護開始から在宅介護までの経緯~

【家族構成】

祖父、祖母、長男、長男の嫁、娘、息子の6人家族。

娘と息子は実家を離れ生活中。長男は県外へ単身赴任で2週間に1度帰省する。実質、祖父、祖母、長男の嫁の3人暮らしを約20年続けていた。現在、祖父は要介護認定を受け在宅介護中。

①ある日突然、祖父母2人の介護が始まった

3年半前の夕方17時、いつもなら畑仕事を終え自宅に戻ってくるはずの祖母の姿がない。17時30分になっても帰ってこないため、心配になり母と一緒に家の周りを探した。

すると母の「誰かハウスの裏に来てー!」との叫び声。
と同時に「おばあちゃん、わかるー?」と大声で呼びかけている。

ビニールハウス沿いに積み上げていた木材の上に倒れている祖母を発見する。意識は朦朧としており、呼びかけに何とか反応する程度。顔や体にも土がかかっており、何とか自分で動こうともがいたような形跡があった。すぐに救急搬送し一命を取り留めたものの、脱水症状からくる脳梗塞を発症したと診断。

高齢であることや発見が遅いことも重なり、手術することなく点滴治療のみ。

結果、右半身に麻痺の後遺症が残り、その日を境に車椅子生活となった。


②リハビリ期間

急性期病院での治療は約3週間弱。その後、回復期リハビリ病院へ転院となり、言語聴覚士によるリハビリと、右が利き手のため左手で食事ができるよう理学療法士と作業療法士によるリハビリが行われた。最初は座位を保つこともできなかったが、リハビリを頑張った成果もあり徐々に車椅子に座れる時間も長くなっていった。

発語(言葉を発すること)もでき、食事も徐々にできるようになった。

ただ、ここから大変だったのは、右手足が動かないことを本人が受け入れられないこと。また、利き手でない左手での食事が思うようにできないことや、体の痛みなどを思うように伝えられないこと、体の自由がきかないことなど、本人自身が現実を受け止めることにとても時間がかかった。

自暴自棄にもなりリハビリへの意欲もなくなるとベッドから起き上がることもできなくなった。家族が面会に行くと、大泣きをしながら「この手を切っちゃって!」と訴える日々が続いたこともあった。病院スタッフのケアもあり、何とか精神的バランスを取りながらリハビリ期間を過ごしていた。その間、介護申請を行い退院後の生活の場を家族で検討した。


③壮絶な在宅介護

祖母は、要介護5の認定を受けた。

祖父とは違い、ほぼ寝たきりの状態で家の中でも車椅子が必要となる生活。

最初は祖父母2人を在宅で介護することも相当大変になるため、退院後そのまま介護老人保健施設へ入所させようかと家族で検討した。

しかし、病院生活の様子や、元々人見知りの性格で周りの方と話もしないこと、その上精神的に不安定な状態になりがちとなる祖母。この状態で介護施設での生活はできるのだろうか、すぐに家族が呼び出されるようなことにならないだろうかと考えた。その結果、一旦在宅へ戻し母が祖父母の介護を試みることにした。

その際、母の負担は確実に増え、肉体的にも精神的にも疲労してくることも想定されるため、家族の要望に臨機応変に対応してくれる「小規模多機能型居宅介護」という介護サービスを選択し、日中はほぼ毎日デイサービス、週末は宿泊を組み込んでいただくよう依頼した。

ただ、本人の休息も必要なため、週に1日は在宅で過ごす日を作るが、その日は訪問介護で夜ケアをしてもらえるよう介護プランを組んでいただいた。

そして、祖父母2人なら安心して通いや宿泊ができることもあり、この事業所には祖父母2人で同じプランを組んで対応していただいた。

しかし、祖母の人見知りの性格が出て、宿泊サービスになかなか慣れない。そうなると在宅の時間が増え介護者である母の負担が大きくなった。帰宅願望が強い利用者や、ケアに手がかかるようになると、この事業所では徐々に臨機応変な対応もしてもらえなくなり、当初の介護プラン通りにはいかなくなった。


④在宅介護サービスの事業所を変更する

これでは母も介護疲れで倒れてしまうため、別の小規模多機能型居宅介護の事業所へ変更することを決めた。

ここでは、手のかかる難しい祖父母を上手にケアしてくださり、有難いことに長く利用することができた。また、毎日夕食まで済ませて帰ってきてくれること、宿泊も定期的に組み込んでくれ、母の負担は大幅に軽減した。ここまで事業所の方に協力してもらえなかったら在宅介護は続けられなかったと思う。この時、施設入居も視野に入れて考える時がくるかもしれないと思い、念のため近くの特別養護老人ホームに申込だけはしておいた。


在宅介護から施設入居へ

①施設入居を選択

在宅介護を継続していたが、小規模多機能型居宅介護の宿泊サービスを利用中、祖父が転倒し入院を余儀なくされることとなった。

その後も、介護事業者の方の大きな協力もあり祖母は在宅生活を継続していたが、ある日母が体調を崩した。

その頃、祖母も食事が難しくなり、体力も落ちてきていた。家族で検討した結果、このタイミングで在宅介護から施設介護へ切り替えようと決断した。介護者が倒れてしまっては意味がないし、24時間介護サポートがあった方が祖母のためにもなると考えた。

以前申し込みをしていた特別養護老人ホームからは空き状況の連絡はなかったが、再度入居状況の確認をした。家庭の状況や家族の状況を伝えるとすぐに審査会にかけてくれるとのことで、思ったより早い段階で入居することができた。


②コロナ禍での介護の末

入居後すぐにコロナ禍となり面会制限も厳しく、会える回数は数えるほどになってしまったため、この入居が良かったのか正解は出せずにいる。しかし、家族でしっかり話し合って決めたことなので後悔はしていない。

そんなコロナ禍に祖母は施設で息を引き取った。最期は個室に移していただき、いつでも家族が面会できるように配慮してくれたが、やっと会えたと思った時には最期…。


まとめ~孫の願い~

孫は、このように話しています。

何とも気持ちの整理がつけ難い。肩呼吸をする祖母の横で大粒の涙が止まらなかったが、祖母の目が“おばあちゃん”として私を見つめる優しい眼差しへと変わったように感じた。その瞬間、一気に私を幼少期へと戻してもらったような感覚だった。手をぎゅっと握ってくれた温もりや交わした会話は一生忘れることはない。祖母にとって、最期の場所が介護施設であったことが良いのかわからない。

ただ、このような介護状況にならなければ、私たち家族はこれほど向き合わなかっただろうし、家族の絆を感じなかっただろう。今は感謝の気持ちを伝えたいことと、安らかにいてくれることを信じている。

私たち家族のように、介護者1人(母親)が家族2人の介護をすることはまだ少ないかもしれません。

しかし、今後、金銭面や人員の問題などで介護施設への入居が困難となった場合、このような方はさらに増えいくと考えられます。家族の要望に臨機応変に対応できる小規模多機能型居宅介護や、看護小規模多機能型居宅介護といった介護サービスは、今後さらに需要が増すと考えられますし、このような介護サービスが皆さんの生活している自治体にあるかどうか、今の段階から情報を得ていっていただきたいと思います。

この記事に関連する最新記事

おすすめ書式テンプレート

書式テンプレートをもっと見る

著者プロフィール

author_item{name}

石間 洋美

一般社団法人 日本顧問介護士協会 代表理事

子どもの頃から「人の役に立つ仕事がしたい」という想いを強く持っていて、高校生活のボランティア活動で福祉・介護の世界と出会う。福祉・介護に関わる仕事を目指したく、静岡福祉医療専門学校医療福祉情報科へ入学。卒業後は、介護施設にて様々な経験をする。その後、自身のスキルアップのために介護事務業務、相談業務、マネジメント業務、管理業務を行う。医療福祉接遇インストラクターの資格も取得し、お客様満足度向上のための研修講師も務める。介護の業界に携わり「誰にでも介護はある日突然やってくる」現実を目の当たりにしたとき、もっと多くの方の救いや力になりたいという想いがさらに強くなり、その想いを実現すべく、2020年4月に当協会を立ち上げ、現在は「介護で困る人と困る量を圧倒的に少なくする!」を目標に掲げ活動している。

この著者の他の記事(全て見る

bizoceanジャーナルトップページ