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「持続可能な経営」(Sustainable Management)を目指して!―その⑩―

「持続可能な経営」(Sustainable Management)を目指して!―その⑩―

この記事の著者
高岡法科大学  教授 

モノづくりの危機

先日、目を通した資料のなかで気づいたことがある。新聞やビジネス雑誌にも書かれていることなので「発見」ということのほどでもない。電子・電機機器の世界シェアをみると中韓台メーカーが上位を占める機器がけっこうあるけれども、半導体やソフトウェアの上位企業のほとんどが欧米のメーカーがほとんどであり、日本のメーカーは中韓台メーカーの後塵を喫している。まだ自動車が残っているので何とも言えないが、モノづくりニッポンの凋落を象徴するデータだ。

筆者が居住する富山県は三大都市圏以外の地域のなかでも製造業の比率が高いこともあってこうした状況に対する危機感からか、理工系の教育や産学連携に力を入れている。こうした状況は程度の差こそあれどこでも同じであろう。


理工系教育-工業高校と高等工業専門学校の役割-

理工系の教育といえば、思い浮かぶのは工業高校や高等工業専門学校(高専)である。 どちらも、戦後、Made in Japanを支えた「モノづくり」のための教育機関だ。後者には研究も含まれる。

工業あるいは製造業の基本は原材料や素材の「加工」である。工業のどのような産業であるのかを集約するものは「機械」であるが、機械は様々な「部品」から構成され、複雑であればあるほど「部品」の数は増え、精度と耐久性が要求される。その部品は原材料や素材の「加工」によってつくられる。だから、「加工」が重要になる。そこで、この「加工」という観点に着眼して、工業高校と高専の違いを整理すると以下のようになる。

工業高校は「加工に必要な知識や技能」の習得を目的としているのに対して、高専は「加工の原理や仕組みに関する知識や技能」の修得を目的とする点で違いがある。加工でいえば、工業高校は「加工対象の加工の仕方」を学ぶのに対して、高専は「加工対象の加工特性の原理・性質」学ぶ。機械でいえば、工業高校が「機械の使い方」を学ぶのに対して、高専は「機械の仕組そのもの」を学ぶ。実際には、このように明確に分かれているわけではないだろうが、ざっくり分けると以上のような整理となるだろう。

求められる「モノ」が簡単で単純な段階では、これらは一体で今日ほど明確には分かれていなかったように思う。しかし、「モノ」が複雑になり高度になるにしたがって、「加工技術の知識・技能の習得」と「加工の原理・仕組みに関する知識とその応用技術・技能の習得」は分離していく。そして、後者の比重が徐々に高くなっていく。そして、加工対象が複雑・特異になればなるほど、前者もまたグレードアップが求められ、「加工の原理・仕組みに関する知識とその応用技術」も求められるようになってくる。要は、単純な「技能者」ではなく「技術者」が求められるようになっていく。あるいは技能者であったとしても技術者としての素養が求められるようになっていく。現在、その技術者が不足していると言われている。


製造業における人手不足の中身-技術者としての能力や心性をもった技能者-

 

「技術者」には専門性とともにある種の創造性が求められる。それ故、技術者不足は単なる員数の不足だけではなくて、こうした能力というか姿勢や感度の欠如も含まれる。その意味では、技術者不足は深刻である。

ただ、他方で「技能労働者」の不足も問題にされている。それを埋めるものとして外国人労働者の導入が行われているが、それは精密加工やオーダーメイド生産に対応できる半技能・半技術労働者の不足への対応というより、単純な技能労働者の量的不足への対応にすぎない側面がある。求められる技能が高度化しつつあるといっても、仕事のすべてが精密加工やオーダーメイド生産だけではない、標準的で共通仕様でつくれるようなものも含まれる。以前なら、標準的な仕事もこなしつつ、精密加工やオーダーメイド生産ができる半技能・半技術労働者がそれなりの厚みをもって存在したのだろうが、あまりの待遇の悪さに若年入職者がいなくなり、単純・複雑双方の仕事に対応できる人間がいなくなった。そこで、外国人労働者が必要だということになったと思われるが、日本語での、しかもある程度専門な知識の伝達や理解を必要とされるコミュニケーションが求められる精密加工やオーダーメイド生産に対応できるようになるためには時間がかかる。文化の問題もあるし期間も限られている。どうしても、共通仕様の標準加工中心の作業に特化することになるだろう。このことは、世の中は、高度な仕事や華やかな仕事ばかりで成り立っているわけではないということの裏返しでもあるが、本来必要とされている技能労働者の不足とは異なるように思う。必要とされているのは「技術者としての能力や心性をもった技能者」なのだ。


「勤勉性」の再定義が求められる

では、「技術者としての能力や心性をももった技能者」とはどのような人材なのか?

求められる能力は分野によって違うだろうし、門外漢である筆者にはわからないが、ひとつだけ言えるのは、生活のために就業時間内に一心不乱に働くがそれ以外のことには関心を持たない、目的や指示内容、自分が担当する仕事の前後のプロセスに関心をもたない、ただの「勤勉性」や「専門性」ではマズイということだ。

特に、前者は無条件に美徳とされるが故によく考えなければならない要素である。

マーケットが要求しないものを、眼の前で緊急の仕事を降ってきたのに、脇目も降らずに自分の持ち分を頑なに守ろうとし、自律的な動きができない「人材」は意外と少なくない。確かに「勤勉」や「こだわり」なのだろうが、少なくとも、あらゆるモノが流動化しつつある今日、こうした類の「勤勉」や「こだわり」は相性が悪い。日本の職場は職務が明確ではなく、それが働く者の負担増につながると言われている。そのような一面があるのは否定できないが、与えられた職務への立てこもりは、負担の軽減と引き換えに成長の機会を失ってしまうことになる。

とはいえ、歴史を振り返ってみると、純粋な「勤勉性」や「こだわり」は必要だったからこそ求められたのかもしれない。規格品を大量に生産することが求められた時代においては、そうした姿勢や心性が無条件に意味をもった。そして、それは今日でも意味を失ってはいないのも事実だ。リーン生産として普及した日本のJITシステムは「勤勉性」なしには成り立たないし、そもそも上述したように、仕事は創造的なものばかりではない。ただ、それだけではやっていけなくなった時代になったのだ。

「ワーカー的な働き方や姿勢」からの脱却が求められている。

「勤勉」「こだわり」をの再定義が必要だ。ここではたまたま技術者を例にしたが、この話は技術者だけのものではない。働く人間全般について言えることである。「勤勉」や「こだわり」の定義次第で求められる人材も変わる。

経営が持続可能であるためには、イノベーション(技術革新)が必要であるが、第二の「勤勉革命」が求められている。

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著者プロフィール

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石川啓雅

高岡法科大学 教授

岐阜大学大学院連合農学研究科修了。建設コンサルタント会社勤務を経て大学教員へ。専門は経済学。中小酒造業を中心に地域産業の活性化に関する研究を行っている。

著書に、「ワークショップ・エコノミーの経済学―小規模酒造業の経営分析―」高岡法科大学紀要32号(2021年)、「現代地方中小酒造業における生産・労働に関するモノグラフ―ワークショップ・エコノミー論序説―」高岡法学39号(2020年)等。

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