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「持続可能な経営」(Sustainable Management)を目指して!―その⑪―

著者:高岡法科大学 教授  石川啓雅

「持続可能な経営」(Sustainable Management)を目指して!―その⑪―

「危機」によって明らかになったグローバル経済の危うさ

ロシアのウクライナ侵攻が始まってから一月が経とうとしている(コラム執筆は3月中旬)。既に言い尽くされた感があるが、一方的に力づくで他国の領土に侵入し、一般市民の存在などお構いなしに破壊の限りを尽くさんとする蛮行を前に、憤りを感じているのは筆者だけではあるまい。この蛮行の影響は経済を通して世界中に広がっている。一口に「グローバル経済」なり「経済のグローバル化」とは言うが、国境を越える財・サービスやマネー、ヒトの流れが我々の生活と不可分の関係にあるという事実は可視的ではない。それ故、可視的であることが求められるのだが、皮肉にも、我々の生活が世界とつながっていることが意識されるのは、往々にして「危機」と呼ばれる出来事に出くわしたときである。ロシアによるウクライナ侵攻によって生じた世界的な資源・食糧価格の高騰ならびに金融不安はグローバル経済の危うさを改めて浮き彫りにした。

今や経済活動は一国内、一地域内で完結するものではない。経済は国境を越えた商取引や金融取引なしに成り立たないのであるが、その状況は、他方で以上のようなリスクを孕む。それ故、個々の企業の経済活動ならびにその経済活動によって形づくられる経済の仕組み(経済システム)にはグローバル一辺倒ではない要素、「地域」が重要になってくる。


地域再生、地域活性化をめぐる議論に足りないもの!

そこで、今回は地域再生、地域活性化の話をしたい。

「地域再生」ということが言われて随分経ち、最近ではコロナ禍のなかで地方に移り住む人も増え、価値観の転換を伴った「田園回帰」と捉える向きもある。そうした動きに対する評価はともかく、地域再生なり地域活性化が必要なの誰しもが感じているところであろう。

しかしながら、水を差すようで恐縮だが、実際に地方に住んでいる身としては、地域再生は言うほど簡単ではないことを指摘せざるを得ない。

その理由はいくつか示そう。

まず、第一に、公共交通が後退している点である。地方では、どこに行くにも自動車である。何気ないことであるが、通勤帰りの買い物にしても、鉄道の駅に向かうついでに歩きがてらに済ますのと、わざわざ車を止めて立ち寄るのとでは雲泥の差がある。同じではないかと思う人がいるかもしれないが、これが全然違う。確かに、徒歩では重いものは運べないし、大量にモノを買い込むことはできないが、何かのついでにする買い物は徒歩の方が断然便利だし、車の運転につきものの緊張感がない。したがって、鉄道のような公共交通機関の存在は大事だと思われるのだが、地方では「自動車の普及と少子高齢化に伴う利用者の減」で公共交通機関の廃止が止まらない。「街ににぎわいを取り戻す」とはいうものの、かつての駅前通りや周辺の商店街に代わる「街」はなかなか創出できていないのが現状だ。

第二に、結局は施設(ハード)頼みになっている点だ。地方に行くと、住んでいる人間の構成は別にして、駅前は大変立派である。中心市街地活性化やら平成の大合併やらで巨額の財政措置が施されたこともあって、どこも立派な構造物が立ち並ぶ。ただ、施設に見合うだけの人の行き交いがあるかと言えば、そうでないところが多い。筆者が住んでいる某市も駅舎とその周辺施設は立派だが、駅につながるメインストリートには平日はおろか休日にもほとんど人がおらず、昼なのにもかかわらず飲食店がほとんど空いておらず、観光に来た人が困るという有様である。で、結果として、施設整備のおかげで財政危機に陥り、様々な市民サービスの廃止や施設の閉鎖が相次ぐ事態となっている。

第三に、施設ではなく、様々な取り組み(ソフト)が必要であるにもかかわらず、地方では「新しい取り組みに対しては忌避度を示す場面」が少なくない。例えば、昔から「伝統として続いている催事の保全」には熱心だが、それ以外のものには関心を示さないケースが多々ある。だが、これは理由のないことではない。よくよく考えてみれば、新しいものに取り組むのには相当のエネルギーが要るわけで、関係者への説得も含めて、試行錯誤のプロセスは既存のものと比べ物にならない。企業活動における「研究開発」と同じで、関わる人間にとって「労多く益なし」の類の活動である。したがって、新しい取り組みに対して無関心なり不熱心というよりも、それに取り組むだけの熱量(エネルギー)が枯渇しかかっているのが実情だろう。

第四に、地域再生なり地域活性化にありがちな、いわゆる「内発的発展」の議論に関わる問題である。内発的発展とは、企業(工場)誘致とそれを前提とした大規模インフラ整備を行うやり方ではなくて、地域内にある資源や人材を活用して産業を育成し所得を生み出していくような経済開発のあり様を指す概念である。地域再生なり地域活性化が議論される際、この内発的発展の話は無条件で肯定される傾向がある。しかしながら、この議論には問題がある。地域内にある資源や人材を活用して産業を育成し所得を生み出していくような地域発展の「方向性」は間違いではない。しかし、それをどのような順序で構築していくのか、その時、どのような組織や人材が要り、どのような動きをしなくてはならないのかという議論がない。「安ければ地域外のものを使う」という姿勢の問題性を指摘するのは容易い。だが、現実問題としてそうなのだ。ここを突破する議論が提示できていない。結果として、成功事例を拾って歩くことになり、その「模倣」が試みられるが、モデルの多くは特異なものなので「横展開」できるようなものではなく、「方向性」で止まるのである。「置かれた条件がちがう」ので、あとは当事者次第ということにならざるをえないのだが、実際には「方向性」だけでは動けない現実がある。


逆に求められる流動性-「移住」「関係人口」の陥穽-

以上のようなことを考えていくと、地方再生は大変な課題であることがわかる。

一過性のブームに乗じてやれるほど甘いものではない。それこそ「持続可能」であることが求められる。

そこで、「移住」や「関係人口」の話を考えてみたい。

「移住」は文字通り地方への移住であり、「関係人口」は移住には至らなくても、地方に関心をもってもらって交流のために定期的に訪れてくれる人たちのことをいう。いずれにしても、最終的には、少子高齢化と人口流出に悩む地方に移り住んでもらうことが目的なのだが、どちらにしても「常民」の獲得を目的としている。

しかし、地域外部の人的資源への期待という観点からみた場合、「常民」というのはどうなのだろう?

常民というのは民俗学の柳田国男が示した概念で、その土地に「定住」し、文化をつくる民のことを指す。このことは逆に言えば、定住しない民は文化を創らない存在とみなされていることを意味する。心情として「常民」であってもらいたいのはわかるが、地方に関わろうとする人たちに対して、その土地の「常民」であれということは逆に負担になってしまうのではなかろうか。それに、「常民」であることを期待することは、人口減少に悩む地域どうしで人を奪い合う話へとつながり、企業・工場の誘致合戦さならがらの様相を呈し、地域に関わろうとする人たちを地域という商品の「消費者」に貶めることにもなっていく。

このように考えると、逆説的に聞こえるかもしれないが、地域再生が「持続可能」であるためには、実は「流動性」が求められているのかもしれない。外へ向かう動きが内に向かう動きと交錯するinvolutionが求められている。外から内に向かう動きが、内から外へ向かう動きと一体であるような動きである(図)。具体的にどのような動きなのか言われると適当なモデルが見当たらないのが悩みであるが、それは地域再生をして「課題解決」ではなく「価値創造」でなければならないことの裏返しなのかもしれない。

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著者プロフィール

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石川啓雅

高岡法科大学 教授

岐阜大学大学院連合農学研究科修了。建設コンサルタント会社勤務を経て大学教員へ。専門は経済学。中小酒造業を中心に地域産業の活性化に関する研究を行っている。

著書に、「ワークショップ・エコノミーの経済学―小規模酒造業の経営分析―」高岡法科大学紀要32号(2021年)、「現代地方中小酒造業における生産・労働に関するモノグラフ―ワークショップ・エコノミー論序説―」高岡法学39号(2020年)等。

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